「孤高のメス」
みなさんは、「孤高のメス」という日本映画をご存知でしょうか?
この映画のあらすじは、
超一流の実力を持ちながら地方の病院で働いている外科医(当麻鉄彦)が、
脳死患者の家族から臓器提供をしたいとの申し出を受け、
当時 日本では禁止されていた脳死肝移植を行う
といった内容です。
実際に観ると、手術室のシーンをはじめ、すべてのシーンが丁寧に描写されていています。
長年見慣れている僕が、本当の手術をしているのではないかと感じるほど「リアル」な映像でした。
(あまりに「リアル」すぎて、一般の方なら気持ちが悪くなってしまうかもしれません。)
配役も適役で、主人公の当麻医師を演じた堤真一さんの演技は本当に素晴らしかったです。
堤さんは、
当麻医師を熱血漢に演じてしまうと安っぽくなってしまう。
冷静沈着に、むしろ淡々と演じる方が、当麻医師の
「人命を救うのは医師として当たり前だ」という強い信念を感じることが出来る。
とコメントされています。
物語の内容とそれに負けない映像・俳優陣が、この映画の質を高めている反面、
残念ながらそれゆえに、万人受けしなかったんだと思います。
さて、僕がこの映画を観て感じたことは、
「(医師としての)『道徳上の正義』と『法律上の正義』はイコールなのか?」という事です。
この映画の本質は、「脳死肝移植の是非」ではないと思いました。
① 移植を望む患者
② 人を助ける仕事を希望していた息子が脳死になってしまい、
息子が最期にできる人助けが臓器提供だと考え、それを強く望む母親
③ それができる当麻医師
という条件がそろっているのにも関わらず、法整備が整っていないという理由で
当麻医師を犯罪者、厄介者扱いする同僚医師やマスコミ・・・
「たとえ移植が成功しても犯罪者として医師免許をはく奪される危険性がある」
と忠告する仲間に対して、当麻医師は こう言います。
「今、目の前に救うことのできる命があるのに、それをしないくらいなら僕は自らメスを置きます。」
「脳死肝移植の是非」に対し、是か非かと問われたら、
僕個人としては「脳死になっても臓器提供したくない」と答えますが、
実際のところ、それは僕が決めることではないと思っています。
祖父や父、叔父の死に直面して感じたことは、
「死んでいく側の責任」というものがあるのではないか?ということです。
命が一瞬のうちに消えていくことは、本人は苦しまずに済むかもしれませんが、
残された側は溜まったものではありません。
家族にとって「大切なひとが亡くなる」という事実を受け入れ、
その上で前進していくためには、それなりの時間がかかると思います。
日に日に衰弱していく身内を見ることは残される者にとっては辛いことですが、
そのあいだに「身内の死」というものを考えることができますし、
そうなるまで 目の前にいる身内のぬくもりを感じたり、記憶に焼き付けようとしたりすることで、
「死」を受け入れる時間が短縮できるのではないかと思うのです。
また、「あの時ああすればよかった。」などと後悔しないこと、
例えば「色々な方法を試してみたが、現在の医療ではもうこれ以上 何もできなかった。」
などと考えることも「死」を受け入れるためには必要だと思います。
これが、僕の考える「大往生」です。
もし僕が脳死になり、その後 僕の家族が僕の死を受け入れ、その上で臓器提供を望めば、
その時点が僕の大往生です。 僕は それで構いません。
もちろん、これは僕の考えであって、この考えが唯一だとは思いません。
人の死をどうとらえるかは個人の自由。 とするならば、
目の前の人がどういう考えを持っていても(それが明らかな異常でなければ)それは個人の自由
なのではないでしょうか?
だからこそ、脳死移植を法律的に認めることで、それが選択肢の一つとなるような、
そういう世の中になったことは重要だと思います。
医者は、患者に対し、
そこに圧倒的な正義の選択肢がなければ、あらゆる可能性の選択肢を示し、
アドバイスしながらも、それを押しつけたり誘導したりするのではなく、
最終的には本人や家族に選択させ、それを尊重すべきではないかと思います。
この映画は僕にとって、「道徳の教科書」みたいなものです。
※現在、日本では臓器の移植に関する法律(臓器移植法)が制定されています。
それ以前には決して助かる事の出来なかった命が確実に助かっていることは事実です。
2011/10/19更新
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